6月24日 戌亥戦争、白虎隊!

6月24日、土曜日、晴れ、
今日はよく寝れた!天気も快晴で、『朝から』喜多方ラーメンを食べよう!
『一平ラーメン』のギトギト・ラーメンを朝から食べてみた・・・。

お店は8時に、近所の住民で、満席になるほど賑わってた。さすがラーメンの街だなあ!
この街の人は、40歳にもなって、蔵の一つでも建たない奴は一人前じゃあない!って言われるくらい『見栄っ張りな街』で、アチコチに蔵が建っているんだ!
その中で、かなり見栄を張ってる、お味噌と醤油の商いをしていた、『若喜レンガ蔵』にいってみた。
一階が店舗になっていて、ここのお婆さんと、息子さんでやりくりをしているんだ。
お婆さんはここで生まれて、お爺さんが隣の『山形県』から切り出してきた柿の木を、この喜多方まで持ってきて、大工に造らせていた事を話してくれた。
外壁のレンガもワザワザ窯元に焼かせて作った贅沢な隠居部屋だったんだ。
2階はケヤキの材木で統一されて、今もお婆さんは普通に使っているんだってさ。
そしてこの家から醤油問屋に養子として行った、『甲斐本家』には、自分が住んでいた以上の家を7年もかけて作ってるんだ。
表の商いをする横に、迎賓館のような蔵を建てて、今は喫茶店として、使われてるんだ。
すっごく雰囲気がいいから、ここでコーヒーを頂く事にした。
材料の良さと、職人の細工に驚きながら、温かみのあるランプの光でしばし、ものおもいにふけって・・・

和室の床の間は『紫檀・黒檀・タガヤサン』をふんだんに使った、豪華な和室が2間、続き間でつくってあった。ここから、庭と池を眺めながら、優雅なひと時を過ごしていたんだろうなあ?(高い塀に囲まれてるから、ここだけ別世界だね!)

一回りした所で、カレー・ラーメンを頂く事にした。店の名前『こうへい』22−4328は男の名前だが、店の中には女性しかいなかった!
威勢のいい俺と同じ年代の女性と、お母さんと2人でキリモリしているみたいだ!
ラーメンの中にフクシン漬けが入っているのには、ビックリしたけど、美味しいカレー!って感じがしたね。クセになりそうよ。
さあこれから会津藩の『日新館』へ行こう!この場所はなかなか見付からなくって、
この辺りをグルグル回ったんだけど、知らない住宅街の中を徘徊しながらやっと、見付ける事ができたんだ。(簡単にいける道もあったのに、何処を間違えたのかなあ?)

ここはねえ、江戸時代(会津の5代藩主の時代)に、家老の『田中はるなか』のおっさんの考えによって建設されたんだ。
21歳の呉服商『須田ちゃん』っていうボンボンが『日新館の建築費用は、わたくしめが、全てお引き受けします』って言って、3千両をポーンって出して、この金を使って学校ができたんだ!
5年もかかって完成したってことは、今の住宅が4ヶ月で完成するんだから、15倍の規模の建てもんだから、馬鹿でかいもんだよ!

鶴ヶ城の西』に完成したこの学校は、10歳から入ることができたんだ。
まずは読む練習をビッチリ受けて、12歳になると文字を書く練習をはじめ、13歳から、馬・槍・刀などの武術を学習し、16歳からは優秀なものは大学という、部屋に移り、さらなる教育を受ける事ができたんだ。
この事で、こどもの教育が盛んになっていくと、親も黙ってなんかいられない。
自分たちも何かやんなきゃ遅れてしまう!!と感じたのか?手に職をつける人が増えてきて、ロウソクや漆塗り等の産業も発展していったんだ!
町が発展していくから、会津藩の財政を立て直すことができたんだ。
この学校では中国の『孔子』の教え、『儒学』を中心としていています。
『年寄りを大事にしましょう!そして、いけないことはいけないんだ』って言う事を、教えていったんだ。
ここにいたのが16〜17歳で構成された『白虎隊』で、他にも年齢で分けた、18〜35歳までが『朱雀隊』、36〜49歳の『青龍隊』、50歳以上の『玄武隊』っていう、いろんな隊で構成されていた。
ここから時代の流れに巻き込まれていくんだ。
浦賀にペリーが黒船を連れて、鎖国を解除するように迫ってきた事から始まるんだ!
幕府の表舞台に立ったのが、彦根城の『大老井伊直弼』だったんだ!この人が
なかば強引に鎖国を解除する政治を行おうとしたんだ!
そうしたら、外国人を追い払おうとする思いをもった集団も多くいて、『おい!井伊のやろうをやっちゃろうやあ!』ってなって、『桜田門外』って所で暗殺されちゃったんだ。
この事があって、徳川幕府を倒せ!っていう集団があちこちに出来ちゃって、徳川幕府は京都の治安を第一に考えたんだね!京都からそいつらを追い出しちゃったんだ。
追い出された奴らは黙ってないゼ!
裏で談合しちゃてさ、坂本竜馬西郷隆盛と長州の同盟に成功して、大きな組織に膨れ上がっていったんだ。
もう徳川幕府ではどうにも抑えきれなくなって、15代将軍『徳川慶喜』が大阪の二条城で、政権を天皇に返すっていう『大政奉還』を行うしかなかったんだ!
勢いにのった朝廷は、将軍『徳川慶喜』を全ての職から排除して、徳川の全ての土地も奪って丸裸にしてしまおう!としたんだ。
『そりゃあないで!しかし!』って反対したのが『会津・桑名・幕府の残党』で、こいつらが『鳥羽・伏見の戦い』を起こすんだ!

徳川慶喜のいる京都に、1万5千人の軍隊を集めて、鳥羽に進撃!辺り一帯は戦場となって、最初は徳川の幕府軍新撰組が押していたんだけれど、こいつらは刀と槍と鉄砲で戦争をしてたんだけれど、朝廷側の官軍は外国から最新式の近代兵器を仕入れてて、これをブチかまして、刀で向かってくる新撰組を皆殺しにしていったんだ。
この事で『徳川慶喜』も大阪城から江戸城に逃げていくしかなくって、だんだん追い詰められていったんだ。
結局負けて帰った会津藩の集団は、何度も謝ったんじゃけど、『お前ら!全員ぶち殺しちゃるんじゃけえのう!帰って覚悟しとれえよう!』って追い返されたから、奥羽に25人の幕府の家老を集めて、これから戦争相手となる、朝廷側の官軍に対抗する為に『奥羽列藩同盟』を結成し、準備にかかっていたんだ。(もうこの時には勝ち目が無い事を知ってたんじゃあないかなあ?)
徳川慶喜は4月4日に江戸城を官軍に明け渡し、江戸幕府は終わりを告げたんだ。
残った奴らをぶちのめす為に、官軍はとうとう会津に迫ってきた!
板垣退助率いる官軍は、鎌倉の『日光口』で杉並木をはさんで戦争を仕掛け、徳川幕府軍に大勝するんだけれど、この戦争のおかげで、『日光東照宮』も攻めちゃって、『御神体』を会津に運ばなきゃいけない事態を起こしちゃったんだ。
会津藩は奥羽の諸藩国の人間を集め7千名の軍隊を会津に集結させて、敵が来るのを待ってたんだ。
朝廷率いる官軍は、会津軍よりはるかに優れた大砲と兵力をもって、意気揚々と『母成峠』に進撃してきたんだ!
もう、官軍に太刀打ちできる会津藩ではなかったんだ。一気に攻められて、要だった『母成峠』を占領し、官軍は会津の領地に大きく侵略してきた。
この知らせに会津の人間は、大きく動揺し、城内をがく然とさせたんだ。
これを聞きつけた『白虎隊の中2番隊』が、『藩の一大事に早く出陣したい』って言っちゃったんだね!
京都で起こった事なんて見てないからさあ!『我こそは会津藩の為に立ち上がるんだ〜!』って、建議書を出すんだねえ。17歳だよ!
家老はこれを読んで心を打たれ、願いを聞き入れて、『おぬしらの気持ちは良く分かった!会津の一大事!お役に立てるように行って戦うのじゃあ!』って言ったのさ!
白虎隊士は未成年だったからお酒が飲めない、水で盃をくみかわして、決死の覚悟で家を後に出陣していったんだ。(なんかさあ、映画の大和を見ているみたいだ・・・)
白虎隊は、司令室となる『滝沢本陣』に到着した。だけど、幼い白虎隊士は、本陣の警備や伝令の手伝いをするくらいしかできなかったんだ。
いよいよ会津の架け橋『十六橋』が危うくなってきた。この橋を渡られてしまうと、まっすぐ城下に攻め込まれてしまうので、会津藩は必死にこの橋を壊して、官軍が入ってくる道を無くしてしまおうと考えたんだ。
だけどもこの橋は、頑丈な石橋で造っちゃってて、いくらやっても破壊できないから、そのうちに官軍が橋のたもとまで攻めてきて、激しい銃撃戦になったんだ。
こうなったら近大兵器を持っている官軍が有利だよなあ。
会津軍は向こうのすざまじい攻撃に、やむなく退くしかなかったんだ。
とうとう白虎隊に『戸の口原』への出撃命礼が出された。
何も知らない、隊長以下42名は意気揚々と夕暮れ迫る『戸の口原』へと向かっていった。
8月23日の朝『戸の口原』で、官軍との激しい銃撃戦を行っって、圧倒的に多い官軍にビックリしたんじゃあないかなあ?戦争なんかしたことも無い白虎隊は囲まれてしまって、ちりじりに逃げていくしかなかったんだ。(少しは何とかなると思ってたんだろうけど、あまりにも違いすぎて、どうしようもなかったと思うよ)
官軍の攻撃をさけて、山の中に逃げ帰って、真っ暗な洞窟を岩をさすりながらすり抜け、一行20名は『飯盛山』のお城が見える所に出たんだ。(12名も目の前で殺される姿を16歳で見たらたまんなく怖いよねえ)
鶴ヶ城』を見ると城下は炎に包まれ、お城は黒煙の中に見え隠れしていた。
すっかり疲れきった隊士たちには、もはや『落城』したと勘違いしてしまったんだ。
だけども現地では、思いもよらぬ事がおきていたんだ。
戊辰戦争の時に『日新館』は、軍事病院として使用していたんだって。
敵の官軍が『鶴ヶ城の本丸』を目指してくると、『敵の手に渡るくらいなら』と覚悟を決めて、『自ら火を放ち』日新館と鶴ヶ城は炎上していたんだ。
これを『敵の落城と勘違い』した白虎隊は『飯盛山』で自害をして果てていったんだ。
これが白虎隊の一部始終なんだ。けどね・・・・
この中で自害したんだけど息を吹き返した人物がいてね、この人は『飯沼貞吉』って人なんだ!
この戦争の結末として、会津藩はひどい目にあうことになる。
明治2年に会津藩松平家に『家名再興』が許されたんだけど、場所が会津ではなくて、『青森県下北半島の一帯と北海道の後志支庁瀬棚町周辺』の農民も嫌がる寒い場所においやってしまったんだ。
道中逃げ出す人も多く、『斗南(となみ)』を開拓する藩士は刀を桑に持ち替えて、耕したんだ。これは、『廃藩置県』が行われるまで続いたんだ。
この中で『池上四郎』というひとがいた。戊辰戦争と斗南移住を体験した人なんだけど、この人は大阪に移住して、大阪府警察部長を経験し、第6代目の大阪市長になった人なんだ。(いまも天王寺銅像があるんだって)
さっきの『日新館』にいた『郡長正』っていう一人の少年がいて、お父さんは戊辰戦争の責任を取らされて、切腹していった人なんだ、その子供が優秀で、県外の学問所に留学しにいったんだ。
他の土地に行くと『会津のナマリ』や、よそ者扱いをされて、イジメを受けてたんだね。そんな時に、里の母親に手紙を書いたんだ。『こちらの生活はきびしく、里の柿が恋しくなったので送ってください!』って書いたんだ。
母親から来た返事は、『嘆かわしい!それでも会津藩士ですか!恥を知りなさい!そんな子は私の子ではありません!』って書いてあって、送られてきた荷物には柿も入ってなかったんだ。(まだ16歳の男の子にはきびしい内容だよねえ!)
この手紙を『郡長正』くんは懐から落としてなくしちゃったんだ・・・
たまたまその手紙を同級生に拾われちゃって・・・『返してくれ!』っていうのに、
そいつらは、学校の掲示板にその手紙を張り出して、見世物にしたんだ!
『郡長正』くんは周りから、さらなるイジメをうけちゃって『会津者は、ひもじく
しているから、イクサに負けたんだ!』なんて・・・
同じ会津の人間にも無視をされるようになった『郡長正』くんは、これ以上会津の『志』を傷つけられない為に、学校にある道場で・・・腹を切って、自害したんだ。
今でいう高校1年生だよ!お母さんはどんな想いをしたんだろうねえ!辛い人生だよ。
きょうは『道の駅、喜多の郷』で寝ます。おやすみなさい。