8月28日 観光地・・・宮城県・松島!

観光地・・・宮城県・松島!
平成18年8月28日、月曜日、雨のち曇り

朝起きてみると、久しぶりに雨が降ってた・・・
昨日の疲れが取れないから、お昼までノンビリ本を読んで過ごしていました。
時計を見たら、お昼近くになってきたから・・・そろそろ行こうかねえ!宮城県の松島を目掛けてしゅっぱ〜つ!
松島にある『みちのく伊達政宗歴史資料館(022−354−4131)』に行くと、伊達政宗の一生を分かり易く、人形を使って説明してありました。
伊達政宗は、伊達家の『てるむね』の長男として産まれました。
幼名を『梵天丸』と言い、幼い頃から『こさい和尚』から勉学を習い、英才教育を受けて育つ秀才でした!

10歳年上の『片倉小十郎』からは、武術を習い、家督を継ぐモノとしての度胸も学んでいったそうです。
10歳で元服して『伊達政宗』に名前を変えて、わずか13歳で『愛姫11歳』と結婚することになりました(なんちゅう政略結婚なんだろうねえ!)
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そして15歳の時に、初めての戦に出陣しているのです(恐くなかったのかなあ?)
お父さんは『政宗』が18歳の時に、政宗家督を相続して突然隠居してしまうのです(お父さんはまだ41歳なのにね)。
これには裏があって・・・お母さんは長男の政宗よりも、弟の『小次郎』に伊達家を継がせようと考えていたようです。お父さんはこの事に感ずいていて、これを封じる為に突然隠居してしまったようです。
政宗の時代はしょっちゅう戦争ばっかりしてる時代で、二本松の城主『畠山よしつぐ』と戦争していたとき・・・『畠山よしつぐ』は戦に敗れて降参し、政宗のお父さん『てるむね』に謝に行き『宮森城』に行ったんです(ここで何があったんだろう・・・)。
『畠山よしつぐ』は、お父さんを人質に取ってしまい、お城から逃げ出してしまったんだ!
こんな事になるとは思ってなかったお父さんは、恥をさらしちゃあ息子に悪いと思ったのか・・・家来に向かって『こりゃ〜!おどれら〜!このわしと一緒に『畠山よしつぐ』を殺すんじゃこら〜!逃がしたら承知せんど〜!』って言って、一斉攻撃をさせたんだ。

これを聞いた『畠山よしつぐ』家臣達は、お父さんもろとも、伊達家のヒトを皆殺しにしちゃったんだ。
この事で、政宗はイキドオリを感じてしまい、人格まで変っちゃたんだね。
もう1方の畠山の子供『くにおうまる』も、お父さんを殺された事で、伊達政宗を倒そうとして、戦争を仕掛けるんだ!
この戦争を『人取橋の戦い!』っていって、生涯で最も激しい戦だったみたいです。
政宗自身・・・『よろいの上から銃弾を5発と、弓矢が1本刺さっていた』といわれるくらい激しい戦だったんだ。
いろんな戦争に勝って、意気揚々としていた頃、豊臣秀吉の部下だった『芦名氏』まで政宗は叩き潰してしまったんだ。
これに怒った秀吉が、『 こりゃあ!わしの部下までやるっちゅうのは、どういう事か説明に来んかい!』って呼び出しを受けたんだ。
だけど、政宗は知らんぷりをしてたんだね!
この秀吉の激怒を知っていた人が他にもいたんだね。それがお母さんだったんだ!
お母さんは、伊達家を守るためには『 弟の小十郎』に家督を相続させて、政宗一人に責任をかぶせて殺せばいいんだわ!って考えたんだ。
そしてお母さんは、政宗を毒殺しようとしたんだ。
政宗はこれを察知したんだね。お母さんの考えも見えてきたから、悲しかったと思うよ。
この考えを打ち消す為に、政宗は『小十郎さえ居なければお母さんはこんな企みはしないだろう』といって、弟を自ら切り殺してしまう(悲しいねえ〜!マッタク!)
こんな事があってから『小田原攻め』をしていた豊臣秀吉に会いに行くことにしたんだけど、秀吉はへそを曲げて、政宗に会おうとしなかったんだね。
政宗は何度も会おうとしたんだけど、秀吉から『 全員蔵の中でも入って、反省しとけ!』って言われて、蔵の中で秀吉が声を待ってたんだ。
『 やっべ〜なあ!秀吉のオッチャン本気で怒ってるぜ!』って思った政宗は『死装束』で秀吉に会うことを決意していた(ダメなら秀吉のオッチャンと刺し違えてやろう!って考えてたんだなあ)。
この政宗の気持ちを感じ取った秀吉サンは、度量の大きさを見せつける事にしたみたいで・・・死に装束姿の政宗に秀吉は、自分の刀を渡して『いつでも俺を切ってもいいぞ!』という姿勢を見せて、これから攻め落とす小田原城の戦略を政宗に説明を始めたんだ!
刀を持ったまま説明を聞いてた政宗は『このオッチャンには勝てねえなあ!』って思って秀吉に従うようになっていったんだ。
お仕置きとして秀吉は、政宗の領地を没収しちゃったんだ。
小田原城攻めの後、秀吉は検地と刀狩りを始めるようになったんだ。
この税金があまりにもきつくって、地元の土豪武士が『やってらんねえぜ!』って言って、この頃から反逆の『一揆』を起こし始めたんだ。
政宗は没収された土地だったから、黙って見てるしかなかできなかったんだ。
だけど、政宗の後に領主になった『蒲生氏里』ではこの一揆を鎮めることができなかったんだなあ。
秀吉にこの一揆のことが耳に入って『どうしたのだ?』って蒲生氏里に聞くと『この一揆の裏で、伊達政宗の野郎が動いてるんでさあ!』と報告したもんだから、秀吉はまたまた激怒して『政宗〜!なにさらしとんじゃあ!ちょっとこんかい!』って呼び出しをくっちゃったんだ。
『また、呼び出しかよ〜!今度は殺されちゃうかもしんねえぞ!こりゃあなんか考えねえとやべえなあ』って政宗は思うんだ!
秀吉に会う為に上洛するとき政宗は、死に装束の出で立ちで、行列には十字架の柱を持たせて町を練り歩いたそうです。
秀吉に対して誠心誠意答える政宗の姿を見て秀吉は、これは政宗を恨んだやからの仕業と見抜いて、政宗を仙台に移すことにしたんだ。
政宗は、秀吉はキライだったけど、甥の『豊臣秀次』とは仲が良くて、交流があったんだ。
歴史とは分からないモノで・・・この秀次が豊臣秀吉に謀反を起こしてしまうんだ。
秀吉は高野山で甥の秀次を殺しちゃうんだけど、この謀反に仲の良かった政宗が係わってるんじゃあないのか?って秀吉は疑いを持つんだね。
結局これも政宗に憎んでる者が秀吉を動かして、政宗を殺そうとしたことが分かって、政宗は命拾いしたんだよ。
秀吉が死んで、家康が天下を取ると、江戸が急速に発展し人口がドンドン増えていくんだね。
政宗は一大決心をして、江戸の人の食料をまかなうお米を、この仙台で作ってしまおうと考えたんだ。
土木事業で水路の確保を行って、仙台米の生産を着実に増やしていくんだ。この農業政策が成功して、仙台は発展していく事になるんだ。
そんな政宗は、江戸城桜田屋敷で70歳の生涯を終える事となる。
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米沢出身の政宗が若いときに、秀吉に追い出されちゃって、この仙台に『青葉城』を建てることにたんだ。
上杉謙信武田信玄、蒲生氏里がいつ襲ってくるかわかんないから・・・
だけどもし万が一、青葉城が攻め落とされた場合を考えて創った秘密の場所があったんだ。
それが、松島にある『瑞巌寺(ずいがんじ)』なのだ。
見た目は、京都の妙心寺に所属したれっきとしたお寺なんだけど、中の造りは2条城と良く似てるんだ。
坊さんの居る天井は普通の竿天井で造られている。
だけど伊達家の人が入る部屋は、天井は折り上げ小組格子合天井の豪華なものになってるし、彫刻なんか桃山時代の様式が取り入れられてるんだよ。
二条城の大工130名を呼んで4年5ヶ月かけて造ったんだって。
上段の間に行くと、上段の上に『上々段』っていう6帖の畳の書院まであるんだ!
これは政宗が天下を統一したときに、天皇を迎えるためにワザワザ創らせたものなんだって・・・。
畳の厚さも10センチあって、床下から槍で突かれないようにほどこされてるんだ。
畳の敷き方もお寺の敷き方じゃあなくって、戦争したときに、
弓矢を避け易いような、武家屋敷の敷き方にしてあるんだ。
台所も、換気のためのヤグラも、戦争のときの見張り台になるように考えてるし、廊下の天井は、ものすっごく高いんだ!
何でかっというと、戦争のときに長い槍を振り回せるようにする為なんだなあ。
この仏壇の下には、30人の武士を隠しておく部屋も造ってあって、何かありそうな時は、ここに待機させておいたんだ。
上段の間にも、1つの襖を開けると、裏口が隠してあるんだって。
廊下はワザワザ2段に造っていて、上段は伊達家の人が歩いていて、下段は家臣の人が歩くようになってるんだね。
その下段は戦争のときに滑らないように、掘り込みが彫ってあるんだ。伊達家の人の部屋に面する廊下には、二条城と同じ『うぐいす張り』がほどこされてあって、曲者が入ると、音が鳴るような仕掛けが施してある。
これは、お寺じゃあないよねえ!(一度見て下さい)
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夕方になり、お風呂に入りたいんだけど、松島には無いから、隣の『石巻』の道の駅まで行くことにしたんだ。
道の駅で知り合った、スキンヘッドのお兄ちゃんと夜の1時まで話をして過ごしたんだよ。
お兄ちゃんは、バイクで日本一週まわっていて、今は気に入った場所にキャンプをしながら、釣りをして過ごしてるんだって。
二人とも、旅の話で盛り上がっちゃって、時間を忘れて、沖縄の話や、北海道の話しをして過ごしたんだ。(楽しかったよ〜!)
バイクで旅をしてる人たちは、下着は洗濯しないで、使い捨てにしてるんだって。
女の人なんかは、下着が直ぐに盗まれちゃうんだってさ。
『上品の郷・ふたごの湯』で就寝します。おやすみなさい。