沖縄の歴史・・嘉手納基地 (2)

捕虜になっても食糧不足や不衛生の為、マラリアにかかり、死んでいくものも多かったと言われている。20万人もの命が無くなっていったが、その過半数が無理矢理借り出された住民達だった。
1945年(昭和20年)10月末、収容所から元の住宅に帰れることになった者もいるが、米軍基地となった住宅地の者は、移転するしかなかった。
嘉手納は飛行場があることから居住許可が出るのが最も遅く、ようやく許可が出て帰ってみると、米軍上陸のすざまじい爆撃を受けたそのままの状態が目に飛び込んできて、とても人が住める状態ではなかったそうだ(いまの東北をみているようだ)。

住民は他の土地を探したり、『規格住宅』と呼ばれる6坪の茅葺の仮設住宅に住むしか方法はなかった。
昭和21年の4月までに32万5千人が住宅に帰ることになるが・・・住むところの無い人も沢山いた。
その嘉手納基地は1997ヘクタール、羽田空港2つ分の日本の領土を占領し4キロの滑走路『2本』をトラクターを使ってアッという間に作ってしまった。
そして弾薬を納める領地は、その倍の2884ヘクタールを占領してしまっている。
その領地の中で9000人の米軍関係者が暮らしはじめたんだけど、日本人はその中とは違って、小さな汚い家に住んでいる人がほとんどだった。
『これでいいのか?』ここは日本ではないんだろうか?そんな気持ちになってしまう。
 いま東北で同じ事が行われたら・・・どうなるんだろうか?

夜になって、大学の先輩である『屋良さん』と居酒屋の『おか』で待ち合わせをして、沖縄の郷土料理をご馳走になった!
あんがい口に合うものばかりで、イメージを砕かれた気がした!
ミミガーやチャンプルーも美味しく頂き、大満足でした。
しかし、沖縄の夜はここでは終わらない!!
屋良さんに連れられ、タクシーに乗ると・・・・そこは『那覇の繁華街』だった。
先輩は、1軒のお寿司屋さんに入っていった。
出されたネタは・・・・『カジキの握り』や『赤貝の握り』もおいしくって、『マグロの赤身』もとろけるようだった(赤貝の肝も珍味で美味かった)。
全部『屋良さん』がご馳走してくれました・・・感謝。
お寿司屋さんで・・・『沖縄の街は狭くって、人の噂が直ぐに伝わってしまうから、悪いことは出来ない』って泡盛をあおりながら先輩は言ってた(まるで福山の街みたいだよ)。
いろんな場所で、話しが聞けて楽しかった。
沖縄の泡盛は『タイ米』から出来てるんだってね!
『ウコンの入ったお茶と割って飲むと次の日に残らない』とか言ってるけど・・・あれだけ飲んだら、効き目はさほど無いんじゃないかな・・・・
今日の寝床は、居酒屋の『おか(098−854−6435)』の駐車場で寝さして
もらった(街中で車を止めるところなんて無いから)大助かりさ・・・。
気持ち良くクルマの中で寝てたら・・・若い奴らが酔っぱらって俺の車を蹴飛ばしはじめた。
今にも吐き出しそうなくらい酔っていて、とても危険な臭いがした!
これも沖縄の現実なのか・・・
その若者達の声で目が覚めたんだけど、時間は朝の3時だ!
衝撃的な一夜だった!