沖縄の歴史・・嘉手納基地 (1)

平成18年12月9日、土曜日、曇り

船旅の疲れが出てたのか・・・良く眠れた。
今日の起床も驚いた!
なんせこの道の駅は『嘉手納基地』の真横にある。
戦闘機の爆音で目が覚めた(スッゴイ音だぜしかし!こんなんでよく生活できるよなあ!)。

この道の駅『かでな』にある資料館で沖縄の歴史を勉強する事にしよう!
沖縄には『三山時代』ってのがあって・・・琉球国を『北山(ほくざん)』『中山(ちゅうざん)』『南山(なんざん)』と領地が分かれ、それぞれの『按司あじ)』(城主)が取り仕切っていたんだ。
北山は『なそえ按司』、中山は『うらそえ按司』、南山は『大里按司』が城主となり治めていた。その後琉球を統一したのが 佐敷城の按司尚巴志(しょうはし)』だった。
北山を攻めた時に家臣の謀反があり『尚巴志』は北山を陥落する事が出来たんだ。
北山を父親に渡していたんだけど、1422年に自らが王に即位し、その7年後に南山を滅ぼし、三山を統一する事に成功したんだ。
そして『首里城』を中心とした政治を行い7代(63年間)続く!これを『第1尚氏王統』という。
翌年の1470年から『第2尚氏王統』が始まり『尚円(しょうえん)』を始めとし、明治12年まで19代(400年)の間、琉球処分によって『沖縄県』ができるまで続いた。
琉球では東アジアの中継所として貿易が盛んで日本から刀や漆器・扇などを買っていたんだって。
この島は食料の自給率が低く、人々は飢饉の時はかなり苦しんだ歴史がある。
農民の子供として産まれた『野国総管(のぐにそうかん)』は、猛勉強をして中国との貿易船の総管になることが出来たんだ!
そして中国との往来を重ねるたびに中国で『イモ』の存在を知り『どうしても琉球に持って帰りたい』と強い想いを持つようになったんだ。
中国ではどんな気候でも病害虫の被害が少なく育つイモは貴重品で、国外へ持ち出すことは禁じられていた。
『飢饉で苦しむ人々を救いたい』という思を持った『野国総管(のぐにそうかん)』は、命がけで『イモの苗』を琉球の地に持ち帰り、故郷の『野国村』に植えることに成功したんだ(この事により多くの人々の命は救われることになった)。
その後に薩摩出身の『前田利右衛門』によって薩摩に広められ『薩摩芋』としてその名を知らしめる事になる。
この薩摩は1609年に琉球に侵略をしてくる!
それは中国と貿易をしている事に関心を持っていたからで・・・琉球を独立国家としてほっておくのが惜しかったのだろうか?
侵略の理由として『秀吉の朝鮮出兵にチカラを貸さなかった』という名目だった。
時の権力者『島津軍』は三千人の兵隊と1千艘の船で2月6日に薩摩を出発し4月1日に那覇港に着いた!
戦国時代を戦い抜いた『島津軍』に琉球の人は対抗するチカラは無く、簡単に降伏してしまうことになる。
首里城は占拠され城主の『尚寧王(しょうねいおう)』は捕虜の身となってしまい、琉球王国は島津軍の領土となってしまうんだ。
大政奉還が京都の二条城で行われると『明治維新』がおこり、日本は江戸から明治時代に入っていく!この時の日本の方針は『中国との貿易を断ち、琉球を日本の領土とする!』というものだった。
中国との貿易が盛んだった琉球はこの事に応じようとはしなかった(当然だよね)。
明治政府は説得を止め、武力による処分を始め、琉球に警察官160人と歩兵400人を従えて首里城に乗り込み『琉球藩を廃止』し日本の『沖縄県』を設置したんだ(これを廃藩置県という)。
この時に人質として『尚泰王(しょうたいおう)』が琉球民俗の混乱を避けるために、
『貴族』という身分に仕立て上げられて、東京で監視される運命になってしまう。