沖縄の歴史 (2)

明治38年9月、日本優勢のうちに、米国の調停で『ポーツマス条約』が調停される事になる。これは米国のポーツマス日露戦争講和条約の事で、『ロシアは日本による韓国の優越権を認める』『樺太の南半分・南満州の鉄道の権利を認めること』『リャオトン半島南部の祖借権の日本への譲渡』を認めさせるものだった。
皇民化政策・・・・・・琉球王国では『皇民化政策(こうみんかせいさく)』を無理矢理押し付けられた。それは大和風に名前を変えることであり、また『村ごとに神社』を建立させて、国家新道に組み入れる事を強要したのだ!
創氏改名・・・・・昭和15年朝鮮や植民地とした国において日本政府は強制的に、結婚した夫婦は同一した名前を名乗る・・・『創氏』!そして日本風の名前に『改名』する事を行っていた。
10・10空襲・・・・昭和19年10月10日、沖縄に米軍が1000機による戦闘機によって『那覇・嘉手納・読谷』の飛行場を中心とした空爆が行われた。次に港湾施設も攻撃され、那覇市内は『焼夷弾』が落とされ、市内の90%が焼失してしまった。『10・10空爆』によって県民は疎開希望者が急増し、昭和20年までに、約7万人が九州や台湾に逃げていった。
昭和19年の10月からは、17歳から45歳までの男子は軍の飛行場建設工事の為に借り出され、昭和20年1月からは、『兵力の補充』として無理矢理軍人にさせられた。
沖縄が米軍に占領されると、米軍は『沖縄本島を軍政府の管轄下に置く!』と宣言した。
昭和26年9月に『対日講和会議』が行われ、翌昭和27年4月28日に『沖縄・奄美大島・小笠原』が日本から分断されてしまう!
昭和28年に『奄美』が日本に返還される!これは米軍が欲しいのは、軍事飛行場がある、沖縄本島だけであったためで、お荷物だった奄美は利用価値が無い為に返還されたのだ。
昭和47年1月7日、『佐藤栄作首相と、ニクソンアメリカ大統領』が会談し、20年という長きに渡ったアメリカ占領時代を終え、に5月15日に日本に返還される事になった。
しかしこの返還にはいくつもの条件が加えられ、住民はこの影響をもろに受け、生活の為に、密貿易や、軍事品を売り歩き、戦争で全ての物資を燃やされてしまった島人は、それは貧しい生活を強いられて過ごすことになる。
この間に沖縄から日本に渡るには、パスポートが必要だった。