沖縄の歴史 (1)

平成18年12月10日、日曜日

ここでは沖縄の歴史について書いておきたいんだ!
あまりにもヒドイ歴史に目を覆いたくなるからだ!
この事を知らないで日本人として生きていく事はよくないと思うから・・・。
明治5年『宜湾朝保(ぎわんちょうほ)』という役人が明治政府に呼ばれた。
明治政府は、琉球王国の国王の尚泰王(しょうたいおう)を・・・格下の『藩王に封じる』命令をだしたんだ。
宜湾朝保(ぎわんちょうほ)』という役人は、明治政府の決定を『国王』に伝える為に帰国する事になった(この事に批判をする反対派が宜湾朝保を辞任させてしまうんだ!)。
明治8年、明治政府は『松田道之(まつだみちゆき)』を琉球に派遣し『琉球処分の命令を伝えた!』
明治12年、松田は軍隊を率いて来航!琉球藩を廃し『沖縄県』を設置する『廃藩置県』を通達した。
琉球処分』に反対し、『清国』に脱出した『脱清人』達は、清国に対して、『琉球王国復活!』の請願運動をおこなうんだ!
明治12年、『尚泰王』は、廃藩置県に応じて、東京に住居を移した。
清国の『李鴻章(りこうしょう)』は、『琉球3分割』を日本政府に提示するが、日本政府はそれを受け入れなかった。
清国から朝廷を依頼された『米国大統領グラント』は、『伊藤博文』らと会談をかさね、明治政府は『グラント』の意見に沿って『宮古八重山』を清国に分割する『分割・増約案』を提示した。
明治27年7月、朝鮮に勢力を広げようとした日本は、朝鮮の主国である清国と対立し、『日清戦争』が始まる。
明治28年、日本が日清戦争に勝利し、山口県の下関で『日清講和条約』が結ばれる事になった。『下関条約』といわれるこの条約は、『清国は朝鮮の独立を認めること!』『リャオトン半島・台湾・ポンフー半島を日本に譲渡する事』『賠償金3億円の支払い』を承諾させる内容だった。
明治37年には、日本とロシアは韓国の支配をめぐって対立!『日露戦争』に突入していく。

ここははずせない『平和祈念資料館』 (2)

ここから『ひめゆりの塔』が近いんだけど、以前行った事があるから、今回は海沿いに北上してみる事にした。
 
琉球の神様が造ったお城『玉城城跡』は、珊瑚の岩で造られた石垣が山のテッペンまで積み上げてあって、入り口は大きな『輪っか』から入るように造ってあった。
 
この城跡からは、360度・街の景色が見渡せるスゴイ場所にあるんだ。
按司(殿様)』はここからみんなの生活を見てたんだろうねえ!
 
最後に首里城と同じ格式のある霊場『斎場御獄』に行ってみた。
ここは琉球の祖神『アマクミ』が定めた7つの聖地のなかで、最も格式の高い場所なんだって!!
 
昔は国の重要な神儀を行う場所として、一般人は入る事が許されない、『伊勢神宮』のような場所なんだ。
 
今は観光用に誰でも入れるようになってるんだけど、祭壇らしきものも無く、自然の地形そのものが聖地としているみたい・・・。
 
沖縄の人は先祖しか崇拝しない考えだけど、ここだけは『心のよりどころ』としている別格の聖地のようなきがする。
 
自然石が横たわるだけの場所なんだけど、三角の岩の間を歩いていくと、そこから海が見えたりして・・・とっても癒される!
 
昔の人がどんな気持ちでここを訪れていたのか、みなさんもこの地を訪ねて歩いてみて欲しいなあ〜!
 
南国に来たら、心の中でいろんな事を感じ取る事が大事だと気が付く。
 
貧しい中で生活している為に、金ぴかな建物を造る事を控え、それよりも心のよりどころとして、大切にしている場所がこの沖縄にはたくさんあるからね!
 
日も暮れて、今日もお風呂に入る事ができないのかな?って思ってたら、いくつか健康センターがあることに気が付いた!
 
沖縄市の上にある『うるま』っていう場所まで車を走らせると目的地があった!
 
1470円で12時間滞在する事が出来るこの場所は・俺にとってオアシスにみえた。お風呂に入って直ぐに仮眠室で寝てたんだけど、夜中の2時に、突然の地響きで起きたんだ!
起きてみるとマルマルと太ったおっさん達が声高らかにイビキを大合唱してるではないか〜!(それも半端な音じゃあないんだ)。
 
道路だったら騒音問題になりかねない大きさの音なんだもの・・・。
寝るタイミングをはずしてしまった、お兄ちゃんたちは『咳払いをしてみたり』
『イビキをかいて寝てるオジサンの悪口』を言い合っていた。
 
だけどそんなもんで自分が寝ることなんて出来ないのは分かってる!(このイライラをどこかにぶつけたかったくてしかたなかったんだろうねえ!)
 
俺も寝ることが出来なかったから、そそくさと健康センターを出て、自分の車の中で寝る事にしたんだ。『車の中は、なんて快適な空間なんだ!』この時ほどそう感じた事は無かったね・・・。
おやすみなさい。

ここははずせない『平和祈念資料館』 (1)

平成18年12月10日、日曜日、くもり
 
7時に目が覚めた!
暑苦しいし、街が慌しくなる前に、田舎に行きたかった・・・・(どうも慣れない都会は落ち着かないよ)
 
今までの旅の経験で(とりあえず公園に行けば便所がある)という知識だけは身に付いてしまった!!
12月だというのに、全身から汗が噴き出してくるなんて・・・沖縄でなければ経験できないことだ。
・・・いまは、早くトイレに行って、そこで身体を洗いたい!
 
沖縄には、全国で唯一『お風呂屋さんが無い』文化の国だから・・・
単独の旅をする人間は、とっても苦労する事になるだよ〜。
 
前に来たとき『沖縄県平和祈念資料館』に行ったことがあったから、そこまで走ってみる事にしたんだ!
まだ朝が早くて『沖縄県平和祈念資料館』には誰も居なかった。
 
洗面所でペットボトルに水を汲んで、身障者用のトイレに入ると裸になり、
頭からペットボトルの水を流して身体を洗うんだ!(もうサバイバルだ!)
 
便所の掃除に来ていたオバちゃんが、変な物音に警戒して・・・俺が出てくるまでずっと監視していたのには、ビックリした。
 
全身を洗ってサッパリして出てきた俺を見たオバチャンは、安心したのか何処かへ行ってしまった。
 
以前来た時には、広島県の慰霊碑があったはずなんだけど、今回はいくら探しても見付からなかった? 
 
その代わりお墓の中を端から端まで歩き回ったから、この戦争の司令官が誰だったか
知る事が出来た。

『32連隊の牛島』という人が沖縄戦の指揮をとっていて、米軍との戦闘の中で、最終段階で自決して死んでいる。
 
広島の原爆の戦争とは違って、米軍が実際に上陸して戦闘をしているから、かなりエグイ人殺しをしている・・・。
 
戦国時代の日本人と『軍人』は、この時代・・・まったく別の人種のようにみえて仕方がない・・・。
 
沖縄の民間人を『軍人が生きる為』に盾にして虐殺をさせていたり・・・。
沖縄人どうしを殺し合わせたりもしていた。
 
なんともいえない人間の『欲』の部分が人々を苦しめるのが戦争だ!
みんなもここに来て・・・目を背けないで見て欲しい。

沖縄の歴史・・嘉手納基地 (2)

捕虜になっても食糧不足や不衛生の為、マラリアにかかり、死んでいくものも多かったと言われている。20万人もの命が無くなっていったが、その過半数が無理矢理借り出された住民達だった。
1945年(昭和20年)10月末、収容所から元の住宅に帰れることになった者もいるが、米軍基地となった住宅地の者は、移転するしかなかった。
嘉手納は飛行場があることから居住許可が出るのが最も遅く、ようやく許可が出て帰ってみると、米軍上陸のすざまじい爆撃を受けたそのままの状態が目に飛び込んできて、とても人が住める状態ではなかったそうだ(いまの東北をみているようだ)。

住民は他の土地を探したり、『規格住宅』と呼ばれる6坪の茅葺の仮設住宅に住むしか方法はなかった。
昭和21年の4月までに32万5千人が住宅に帰ることになるが・・・住むところの無い人も沢山いた。
その嘉手納基地は1997ヘクタール、羽田空港2つ分の日本の領土を占領し4キロの滑走路『2本』をトラクターを使ってアッという間に作ってしまった。
そして弾薬を納める領地は、その倍の2884ヘクタールを占領してしまっている。
その領地の中で9000人の米軍関係者が暮らしはじめたんだけど、日本人はその中とは違って、小さな汚い家に住んでいる人がほとんどだった。
『これでいいのか?』ここは日本ではないんだろうか?そんな気持ちになってしまう。
 いま東北で同じ事が行われたら・・・どうなるんだろうか?

夜になって、大学の先輩である『屋良さん』と居酒屋の『おか』で待ち合わせをして、沖縄の郷土料理をご馳走になった!
あんがい口に合うものばかりで、イメージを砕かれた気がした!
ミミガーやチャンプルーも美味しく頂き、大満足でした。
しかし、沖縄の夜はここでは終わらない!!
屋良さんに連れられ、タクシーに乗ると・・・・そこは『那覇の繁華街』だった。
先輩は、1軒のお寿司屋さんに入っていった。
出されたネタは・・・・『カジキの握り』や『赤貝の握り』もおいしくって、『マグロの赤身』もとろけるようだった(赤貝の肝も珍味で美味かった)。
全部『屋良さん』がご馳走してくれました・・・感謝。
お寿司屋さんで・・・『沖縄の街は狭くって、人の噂が直ぐに伝わってしまうから、悪いことは出来ない』って泡盛をあおりながら先輩は言ってた(まるで福山の街みたいだよ)。
いろんな場所で、話しが聞けて楽しかった。
沖縄の泡盛は『タイ米』から出来てるんだってね!
『ウコンの入ったお茶と割って飲むと次の日に残らない』とか言ってるけど・・・あれだけ飲んだら、効き目はさほど無いんじゃないかな・・・・
今日の寝床は、居酒屋の『おか(098−854−6435)』の駐車場で寝さして
もらった(街中で車を止めるところなんて無いから)大助かりさ・・・。
気持ち良くクルマの中で寝てたら・・・若い奴らが酔っぱらって俺の車を蹴飛ばしはじめた。
今にも吐き出しそうなくらい酔っていて、とても危険な臭いがした!
これも沖縄の現実なのか・・・
その若者達の声で目が覚めたんだけど、時間は朝の3時だ!
衝撃的な一夜だった!

沖縄の歴史・・嘉手納基地 (1)

平成18年12月9日、土曜日、曇り

船旅の疲れが出てたのか・・・良く眠れた。
今日の起床も驚いた!
なんせこの道の駅は『嘉手納基地』の真横にある。
戦闘機の爆音で目が覚めた(スッゴイ音だぜしかし!こんなんでよく生活できるよなあ!)。

この道の駅『かでな』にある資料館で沖縄の歴史を勉強する事にしよう!
沖縄には『三山時代』ってのがあって・・・琉球国を『北山(ほくざん)』『中山(ちゅうざん)』『南山(なんざん)』と領地が分かれ、それぞれの『按司あじ)』(城主)が取り仕切っていたんだ。
北山は『なそえ按司』、中山は『うらそえ按司』、南山は『大里按司』が城主となり治めていた。その後琉球を統一したのが 佐敷城の按司尚巴志(しょうはし)』だった。
北山を攻めた時に家臣の謀反があり『尚巴志』は北山を陥落する事が出来たんだ。
北山を父親に渡していたんだけど、1422年に自らが王に即位し、その7年後に南山を滅ぼし、三山を統一する事に成功したんだ。
そして『首里城』を中心とした政治を行い7代(63年間)続く!これを『第1尚氏王統』という。
翌年の1470年から『第2尚氏王統』が始まり『尚円(しょうえん)』を始めとし、明治12年まで19代(400年)の間、琉球処分によって『沖縄県』ができるまで続いた。
琉球では東アジアの中継所として貿易が盛んで日本から刀や漆器・扇などを買っていたんだって。
この島は食料の自給率が低く、人々は飢饉の時はかなり苦しんだ歴史がある。
農民の子供として産まれた『野国総管(のぐにそうかん)』は、猛勉強をして中国との貿易船の総管になることが出来たんだ!
そして中国との往来を重ねるたびに中国で『イモ』の存在を知り『どうしても琉球に持って帰りたい』と強い想いを持つようになったんだ。
中国ではどんな気候でも病害虫の被害が少なく育つイモは貴重品で、国外へ持ち出すことは禁じられていた。
『飢饉で苦しむ人々を救いたい』という思を持った『野国総管(のぐにそうかん)』は、命がけで『イモの苗』を琉球の地に持ち帰り、故郷の『野国村』に植えることに成功したんだ(この事により多くの人々の命は救われることになった)。
その後に薩摩出身の『前田利右衛門』によって薩摩に広められ『薩摩芋』としてその名を知らしめる事になる。
この薩摩は1609年に琉球に侵略をしてくる!
それは中国と貿易をしている事に関心を持っていたからで・・・琉球を独立国家としてほっておくのが惜しかったのだろうか?
侵略の理由として『秀吉の朝鮮出兵にチカラを貸さなかった』という名目だった。
時の権力者『島津軍』は三千人の兵隊と1千艘の船で2月6日に薩摩を出発し4月1日に那覇港に着いた!
戦国時代を戦い抜いた『島津軍』に琉球の人は対抗するチカラは無く、簡単に降伏してしまうことになる。
首里城は占拠され城主の『尚寧王(しょうねいおう)』は捕虜の身となってしまい、琉球王国は島津軍の領土となってしまうんだ。
大政奉還が京都の二条城で行われると『明治維新』がおこり、日本は江戸から明治時代に入っていく!この時の日本の方針は『中国との貿易を断ち、琉球を日本の領土とする!』というものだった。
中国との貿易が盛んだった琉球はこの事に応じようとはしなかった(当然だよね)。
明治政府は説得を止め、武力による処分を始め、琉球に警察官160人と歩兵400人を従えて首里城に乗り込み『琉球藩を廃止』し日本の『沖縄県』を設置したんだ(これを廃藩置県という)。
この時に人質として『尚泰王(しょうたいおう)』が琉球民俗の混乱を避けるために、
『貴族』という身分に仕立て上げられて、東京で監視される運命になってしまう。

とうとうここまで来た・・・・沖縄!(2)

船が出航する頃になると、太陽が雲の隙間から顔を出してきた・・・
その光景は『神様の領域』のような雰囲気にみえて神々しくて・・・感激してしまったほどだ。

ここから徳之島に向かうまでの間に・・・雲が晴れ、太陽が昇ると 気温もグンっと上昇し、Tシャツ1枚あれば過ごせるほどになっていた。(12月だぜ!鹿児島の気温が1度だったのがウソのようだ!)
ここからいくつもの島を経由していくんだけど、沖縄に近付くにつれて南国の景色に変っていく。

そんななか・・・船内はヒマを持て余した人達で溢れていた。
ヒマをもてあました船内では、誰かにちょっかいを出したくなる!!
19歳の少年をとっ捕まえて『お兄ちゃんはどこから来たの?』と話しかけてみた。
奈良から4日間かけて、なんと『ヒッチハイクで鹿児島』まで来たんだって・・・
このお兄ちゃんは、何にも考えず勢いでこのフェリーに飛び乗ったらしい!
お兄ちゃんは『沖縄で働きたい!』という、根拠のない思いつきだけで、この船に乗っている・・・本当に何も考えてないし、沖縄の情報もなんにも知らないんだよ!
・・・そんな彼の行動力が羨ましかった。
『何とかなるさ!』と常に言ってる彼と、『あの頃に戻れない自分』があまりにも年を取りすぎてしまったように感じてしまう。
船にはもう一人、疲れ果てた50代のオジサンが乗っていた。
コンピューターの会社で働いていたオジサンは・・・時代の流れに呑み込まれた。
都会で『社長』として働いていたのに・・・仕事がなくなった。
目の前にあるカバンに全ての生活品を詰め込んで『沖縄に人生最後の楽園』を見つけようと、このフェリーに乗り込んでいた。
いろんな人生を抱えてこのフェリーは沖縄に向かっている。
凄いリアルな状況が、目の前で語られて、誰もそれ以上深く聞こうとはせず・・・沖縄に希望を求めて旅をしている。
沖縄の『那覇港』には・・・予定よりかなり遅れて21時に着くことになった。
なんと29時間の船旅だ!!
かなり身体にダメージを受けてしまった俺は、3時間経った今も船に揺られている感覚が治らない・・・・。

那覇の町は日本とは違うアジアの匂いがして、ここに住みたくなった。
コンビニがあったことにホットした自分がいたし、地元と変らないお店があったことに感激してしまった。
『嘉手納基地』がある場所に・・・なんと『道の駅』があった。
日本の本土と全く変わらない状況に安堵した私は・・・道の駅を目指して走っていた。
本当に、今日は疲れた・・・・だけど興奮して寝れない。
どうしよう・・・
アッ・・・雨が降ってきやがった!
沖縄に来ると雨なんだよなあ〜!
おやすみなさい。

とうとうここまで来た・・・・沖縄!(1)

東北の震災がとってもショックだったので・・・
『旅日記』を載せる事をためらっていました。
 すると・・・『沖縄の旅日記を見たい』というリクエストをいただきました。
その言葉に応えて・・・また書き始めることにしました。
 いまの季節とは全く違いますが・・・どうぞくつろぎながら、眺めて下さい!!
 
平成18年12月8日 (金曜日)はれ
12月7日の16時に鹿児島港からフェリーに乗るときには激しい雨が降っていた。
当然海は『時化』ていて・・・『船はかなり揺れるだろう!』と船員さんは言ってた。
予定時刻の18時を1時間過ぎても船は出港する気配は見受けられない・・・
後で知ったんだけど、この船は遅れることが当たり前なんだって(ここから沖縄タイムが始まる事になる)
どうやら船に積み込む荷物がたくさんあって、それに手こずっているみたい・・・
ようやく鹿児島港を出発・・・!
最初の港『奄美大島』に着くのは翌朝の6時だとアナウンスが聞こえてきた。
船の座席というか畳1枚にも満たない狭さのスペースを与えられ・・・むさくるしいオッサン連中がひしめく中、長旅を続けなきゃいけないかと思うとテンションが下がる。
船のなかを見渡して・・・2人分の空間をみつけ、そこで寝る事にしたんだ。
だけど・・・船の巨大なスクリューの振動がもろに背中に伝わってくる!!
おまけに大シケの波の揺れが俺の身体を一晩中揺さぶり続けた・・・・
波の揺れに弱いわたしが、逃げ場の無い船のなかで過ごしたこの長い夜は、拷問を受けているようにしか、感じられなかった。
船酔いを最小限に食い止める為に、一晩中寝転んで横になっているしか、他にする事がないし・・・夜中にトイレに行ってみると、小学校の低学年くらいの子供が、洗面所に自分の顔を突っ込んで(船酔したんだろう!)ずっとゲ〜!ゲ〜!えずいていた。(かわいそうな光景だけど、どうしてやる事もできない!)
奄美大島に着いても外は真っ暗で、雲が空イッパイに広がって、太陽が出てくる気配は無く、ドンヨリとした空が気味悪く闇夜の世界をかもしだしていた。
ここでも、船から荷物を出す作業と、積み込む作業に1時間ほどかかっていた。
それまでの間、本当にする事が無く・・・・ヒマなのだ!
奄美大島に降り立つ事もできず、暗闇のなか・・・時間が過ぎるのを待つしかないんだ。『船旅』というのが、とても贅沢な時間をかける・・・・という意味をこの時初めて理解しました。