12月13日 与那国物語(1)

平成18年12月13日、水曜日、くもり

やっぱり昨日の泡盛が効いて・・・・いる〜!
7時半に起きて、今日は『与那国島』に行かなきゃいけないんだ。
知念さんの駐車場に車を置かせてもらって、自転車で与那国行きの港に9時に着いたのは・・・奇跡だ!
石垣の空は曇っていて、海の波はおだやかなのに、船はかなり揺れていた。
10時に港を出発したんだけど、船は揺れはじめた!・・・さすがにここは太平洋の
『ど真ん中』想像をはるかに超えていて・・・俺は昼飯を食べる事すら出来なかった。

与那国島はかなり大きな島で、岸壁は切り立った崖になっている。
乗船していた客はみんな期待に胸を膨らませて・・・ザワツキ始め、港に着くまで記念撮影をしたり、ビデオを撮ったりして40分ほど過ごしていると・・・港に到着。

与那国の港は水深が浅く、青く透きとおっていて海底が見えていた。
与那国島にはたくさんの観光客を待つ『民宿のヒト』や『ダイビングショップの方』が出迎えをしてくれました。
笑顔の島んちゅに歓迎されて、観光客は日本最西端の島に降り立つと、迎えに来てくれた車に乗ってあっという間に消えていった・・・・。
ワタシは、大学の先輩である『入波平さん』が迎えに来てくれる事になっていた。
色黒の小柄な人で、ちょうど船に積まれた荷物を取りに来ていた。
酒屋を営んでいる入波平さんは、新しく工場を建てて、観光客の為に大金を出して勝負に出ていた。
その工場のオープンが12月26日(あと2週間ではないか・・・・)。
早速その工場に連れて行ってもらって、泡盛造りの見学をさせてもらった。
ビックリしたのは・・・・オープンするのに何にも整っていない!!!ということ・・・
どう考えても、オープンまでに間に合わない事がわかるのは・・・建築の世界で働いている時に、こういう光景を何度となく見てきた経験があったから・・・・
本当は目を吊り上げて働かなきゃいけない時期なのに・・・・こんな所が沖縄タイムなのだろうか?

入波平の親方は、俺を民宿に置いて、工場に帰って仕事をするのかな?と
思っていた・・・だけど違ってた・・・・。
なんと奥さんが『石垣島の出張』から帰って来るっていうじゃない!
『もう30分したら飛行機に帰ってくるから、一緒に迎えに行こうねえ!』って・・・
この島では出張は飛行機になる(それは石垣島まで道路が無いから)
・・・かなりのショックだった。
空港で奥さんが降りてきたのを見てビックリした。(だって若いんだもの)入波平社長は52歳なのに、奥さんは10歳も若かった・・・・。
お世話になるので、空港から出てきた奥さん(テルミ姉さん)に挨拶をして、俺はトラックの荷台に乗って、荷物と一緒に揺られて入波平さんの家に辿りついた。
これからこの島で・・・・俺がいままで造り上げてきた人間のモラルというか常識が、音をたててガラガラと崩れ去り・・・『人生初体験』がたくさん始まる事になる!!

12月12日 石垣島(4)

居酒屋を出て、『姫』という石垣島・唯一のクラブに連れて行ってもらった。
ここは衆議院の『K議員』が毎年のように来る店として有名だ!(世間は狭いよなあ!)
36年前に神戸から移住してきたオーナーが、暴力団や地元のいやがらせに耐えながら守ってきたお店だ。
お店の歴史と同じ経験を積んだ、30年勤めてる女性や25年勤めている女性がたくさんいたのは、そのせいだろうか・・・・。
オーナーは、『サバの押し寿司』を出してくれた・・・それがとっても美味しくって、感動していまいました。
その後、もう一軒スナックに連れて行ってもらいました。
先客として、小錦のような体格をした『カリユシウエアー』を着た、真黒に日焼けしたアンチャンが座っていました(石垣島の市議会議員と聞いて、驚きました)。
50代の『孝子ママ』が一人でキリモリしているこのお店に・・・朝の2時まで、知念さんと市議会議員のアンチャンの『島を豊かにしなければ、若者がこの島に戻ってこない!!』という激論が続いていました・・・・・。
ワタシの身体中に泡盛が全身を包み込んで、意識がモウロウとしてきた頃・・・知念さんの奥さんが気を使って電話をしてきてくれた(ありがとうございました。あの分だと朝まで・・・)。
かなり泡盛を飲んでしまった俺は、与那国に行く船の道中・・・素面でいられるんだろうか?
知念さんの家の近くの空き地で、クルマの中で寝る時には、意識はすでに・・・・。

12月12日 石垣島(3)

その後『川平(かびら)』にある『底地ビーチ』に行って、ホテルのシャワーを借りて、汗を流すことにしました!(この石垣島は、12月という真冬にTシャツ1枚で、汗をかいてしまうとんでもない場所なのだ!)。
『川平石崎』は芝生が敷いてあって、ゴルフ場みたいな観光コースになってるんだけど、みんな知らないのか・・・あんまし人がいなかった。

その夜、知念さんが居酒屋に連れて行ってくれた。
知念さんの同級生がしている居酒屋は・・・地元の人でにぎわう、沖縄の匂いがたっぷりとしたお店で、お刺身やゴーヤチャンプルーがとっても美味しかった。
知念さんは33歳の時に自分で会社を設立した話を俺にしてくれた。
大学を卒業するのが3月末だったのに、その前の2月から、会社で働くように言われたようだ・・・。
最初の会社では、土木工事の数量を図面から拾い出す(積算)を、上司の代わりに行っていたそうだ。
イロイロ勉強した後にその会社を辞めて、沖縄県の工事を、県の職員と検討する『コンサル会社』に勤めるようになった。
そこで西日本工業大学で培った学問を生かし、資格取得の為に猛勉強をして・・・念願の免許を取り、10年間沖縄本島で働いて、経験を積んでいった。
長く勤めていると、だんだん離島に出張する事が多くなり、家を留守にする期間が多くなるそうだ・・・・。
そんな時に奥さんから、『給料が少なくても、家族が一緒に住める所に会社を変ってくれないか?』と相談され、それならば自分の会社を立ち上げてやる!って奮起し、土木のコンサル会社を石垣島に設立してしまうんだ。(凄い・・・!)
知念さんの会社に行くと・・・17人の社員の方が出迎えてくれた。
これだけの社員を、1代で成長させている知念さんは輝いていた。
今日逢ったばかりのワタシに、自分の人生を語ってくれた事が嬉しかった(これも北村先生のお陰だね)。

12月12日 石垣島(2)

夜までには、まだ時間がたくさんある・・・
せっかく石垣島にきたのだから、観光をする事にしました。

まずは石垣島の市役所の観光課にいって、島の観光スポットを聞いて、出発〜!
島を時計回りに・・・『唐人墓』『観音崎』によってみた。
 
『名蔵湾』を左手に見ながら走ると、そこはもう南国だ・・・右手には『マングローブの森』が歓迎してくれる!
 
この石垣島は観光客がレンタカーを借りて島中を走ってるから、北海道の時みたいに
観光客同士が仲良く話しができるから、情報交換がとってもしやすい島だね!
 
『屋良部岳』に来ると、クルマエビ養殖場が見えてきて、ここで一人のおじさんとすれ違ったんだ。
声を掛けると、おじさんは『電信屋を知らないか?』と言うんだけど・・・見た事も聞いた事もない名前だったから、『いまきた道には無かったよ・・・』って答えると、おじさんは、手を振って歩いていった・・・。
 
少し走って行くと、そこに『電信屋』の看板があった!!(どうやらオジサンは目的地を見過ごしてたみたいだ)。
 
すぐさまオジサンを追っかけて、『オジサン!電信屋は過ぎてるよ。連れて行ってあげるから、乗りなよ!』って言って・・・ここからこの旅始まって以来の2人旅が始まった。
 
この『電信屋』は明治28年、日清戦争終結後、台湾との間に通信回路を敷く為にレンガ造りで造られた100年以上前の平屋なのだ!
 
明治30年には、『鹿児島・沖縄本島・石垣・西表』を結ぶ通信回路が完成された。
その為、太平洋戦争では、アメリカ連合軍の攻撃目標となり、この小さな建物の外壁に
『無数の弾痕』が残っている。(すさまじい傷跡だった!)
 レンガ造りの内部に入ってみると、その狭さには驚いてしまう。
この建物の中で、何発の銃弾を受けて死んでいったのだろう・・・・
 銃弾の跡を数えると・・・とても生存の希望を持つことなんて出来なかった。
草むらの中に建つこの建物は、過去のモノとして・・・・
オジサンと次に『御神崎』の灯台に行ってみた。
おじさんは2時間前にここに来ていたみたいで、『ガイドさん』のように説明をしながら案内をしてくれた。
『こっちから見る景色がいいんですよ!』『ここから降りると、カニが取れるんです!』なんて言うんだから、その言葉の通りの場所に行ってみました!
 
この先でオジサンは『バスに乗って宿まで帰るから、ここでいいよ!』って、あっけなく2人旅が終わってしまった・・・
石垣島が2度目だっていうオジサンは、上手に交通機関を利用している旅の達人でした!

12月12日 石垣島(1)

平成18年12月12日、火曜日 くもり

予定通り、船は10時15分に石垣島に到着しました!
到着して、真っ先に行った所は・・・・
大学の大先輩である『知念さん』の会社でした。

石垣島の暑さにはまだ慣れないし・・・この島でどうやって生活していいのか?分からなかったんだ。
まずは、これから生きていく為に、この島のルールを地元の方に聞く事にしたんだ。
旅のなかで大事なことは、『現地の方の話を聞く事』です。
『自分の旅だから・・・』といって、勝手気ままに行動すると、現地で生活をしている方に、とんでもない迷惑をかけてしまう事があるから・・・・
 若さにまかせて旅をするヒトが、トラブルを起こして島の住民から嫌われるのが、日常になっている事には胸が痛く、せっかくの旅を・・・・
誰にも守られない状況にある私には、生きていく為の『当たり前の行動』になりつつあった。
知念さんとお話をして感じた事は『なんで沖縄の人はこんなに温かいんだろう?』ということ・・・・・
与那国島に住んでいる大学の卒業生『入波平さん』にすぐに連絡を取ってくれた。
私はトントン拍子に、明日 与那国に行く事になった!!
知念さんが『夜に食事をしようねえ!』って言ってくれた事に感激してしまった。
そして、私が与那国に行ってる間・・・・車を止める『駐車場』も貸してくれる事になったんだ(凄い!)
こんな事ってありえないんだ。
大学の時、『石垣島から九州の大学に行く!』っていう事は、今の時代のように簡単にはいかなかったのでしょう・・・・
その時代に生きた同志の結束力というモノは、私の及ばない所があるようで・・・
電話1本で、話が通じる信頼関係が出来ているのは、時代背景が大きく影響しているんだろうなあ〜!
だから・・・『大学の後輩だからヨロシク!』という知念さんの・ひと言で、話が全部まるく収まってしまう。
こんな事は沖縄にきて、初めて経験する事だった・・・

12月11日 うるま

平成18年12月11日、火曜日、くもり

昨日の健康センターで目を覚まして、今日は『与勝半島』を走ってみよう!
街中は沖縄らしさが全く見えないから、田舎の方に行こう!

まず『勝連城跡(かつれんじょうあと)』に行ってみた。
ここは昨日行った玉城城跡とは違って、城壁が珊瑚の岩で積みあげられてるのが良くわかる!
何でかっていうと、最近積み上げたからなんだ!
それまでの石は、戦争後の復興の為に何処かの場所に使われちゃって、跡形もなくなってしまったんだって(初代の城主は『英祖王系列の大成王の5男』だと言われている)。
このお城は、琉球王国が安定していく中で、首里城国王に最後まで抵抗した有力按司『阿麻和利(あまわり)』が住んでいたお城でもある・・・。
この阿麻和利は海外貿易を先駆けた、時代の風雲児として勝連に大きな富と名声と文化をもたらしたことにより、琉球王国に対抗できるチカラを付けていったんだ。
山に登るとこの場所は、360度見渡せて、凄く気持ちいいんだ!(建物は残ってないけど、充分に楽しめるよ!)
今度は海中道路を渡って、『宮城島』からもう1度アーチ型の橋を渡って『浜比嘉島』に渡ってみた・・・ここまで来ると海の色が透きとおっていて、南国に来た事を実感してしまう。
ここの行き止まりまで行ったところに、『誰かのお墓』が祭られてたんだ。ここから見る景色がキレイでねえ〜!
海の中にある岩がさあ、波で浸食されて、キノコみたいな形に変形してるんだよ!(不思議な形だよ)。
?
ここから『伊計島』に渡ってみるとまたまた素晴らしい景色がひろがるんだ。
ここに縄文時代の遺跡があって・・・かなり沢山の住居が出土してるんだ(ここにくると沖縄に来たんだ!って強く感じたよ)。
帰りの海中道路の『海の駅』はウインド・サーフィンが盛んなのか?トイレと一緒にシャワーがあるんだ!(これは本当に助かります!)
・・・しかし入ってみて驚いた!
温水が出るシャワー室は故障していて、真水が出るところしか空いてないのよ。(12月だぜ!)
100円玉を入れてわずかな期待を抱いていたんだけど、ヤッパリ水しか出なかった!
『めっちゃ寒い!』いくら沖縄でもやっぱり寒い。(ここまできたらやけくそじゃ〜!)
水をアタマから・かぶって身体を洗って、下着もついでに洗った!(早く温水の所を直しなさい!)
・・・もうこんな事ばっかしやってるんだもの!やんなっちゃう。

今日は石垣行きのフェリーに乗らなくちゃいけない!(早めに『那覇新港』に行かなきゃ乗り遅れなんて嫌だからね!)
有村産業』で受付を済まして、19時からの乗船をいま、待ってるんだ!
今日の船は、揺れないで欲しいなあ・・・(明日は10時15分の到着って行ってたけど、たぶん遅れるんだろうなあ!)
・・・おやすみなさい。

沖縄の歴史 (2)

明治38年9月、日本優勢のうちに、米国の調停で『ポーツマス条約』が調停される事になる。これは米国のポーツマス日露戦争講和条約の事で、『ロシアは日本による韓国の優越権を認める』『樺太の南半分・南満州の鉄道の権利を認めること』『リャオトン半島南部の祖借権の日本への譲渡』を認めさせるものだった。
皇民化政策・・・・・・琉球王国では『皇民化政策(こうみんかせいさく)』を無理矢理押し付けられた。それは大和風に名前を変えることであり、また『村ごとに神社』を建立させて、国家新道に組み入れる事を強要したのだ!
創氏改名・・・・・昭和15年朝鮮や植民地とした国において日本政府は強制的に、結婚した夫婦は同一した名前を名乗る・・・『創氏』!そして日本風の名前に『改名』する事を行っていた。
10・10空襲・・・・昭和19年10月10日、沖縄に米軍が1000機による戦闘機によって『那覇・嘉手納・読谷』の飛行場を中心とした空爆が行われた。次に港湾施設も攻撃され、那覇市内は『焼夷弾』が落とされ、市内の90%が焼失してしまった。『10・10空爆』によって県民は疎開希望者が急増し、昭和20年までに、約7万人が九州や台湾に逃げていった。
昭和19年の10月からは、17歳から45歳までの男子は軍の飛行場建設工事の為に借り出され、昭和20年1月からは、『兵力の補充』として無理矢理軍人にさせられた。
沖縄が米軍に占領されると、米軍は『沖縄本島を軍政府の管轄下に置く!』と宣言した。
昭和26年9月に『対日講和会議』が行われ、翌昭和27年4月28日に『沖縄・奄美大島・小笠原』が日本から分断されてしまう!
昭和28年に『奄美』が日本に返還される!これは米軍が欲しいのは、軍事飛行場がある、沖縄本島だけであったためで、お荷物だった奄美は利用価値が無い為に返還されたのだ。
昭和47年1月7日、『佐藤栄作首相と、ニクソンアメリカ大統領』が会談し、20年という長きに渡ったアメリカ占領時代を終え、に5月15日に日本に返還される事になった。
しかしこの返還にはいくつもの条件が加えられ、住民はこの影響をもろに受け、生活の為に、密貿易や、軍事品を売り歩き、戦争で全ての物資を燃やされてしまった島人は、それは貧しい生活を強いられて過ごすことになる。
この間に沖縄から日本に渡るには、パスポートが必要だった。